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除夜の花火を打上げる会

20091231

 

 今年も今日でおしまいである。早いものである。地球自体が次元上昇しているせいかどうかはわからないが、時間の進むスピードが確実に上がってきている感じがする。

 

 弊社のある、田上町では、毎年、大晦日の夜に除夜の花火が打ちあがる。今年で23回目である。先程、大雪・強風の中、今年も無事終了した。

http://www.geocities.jp/jyoyanohanabi/

 

 阿部花火屋の阿部社長さま、並びに花火職人の皆様、強風冷感の中、ご苦労様でした。本当に有り難うございました。毎年の事ですが、本当に感謝申し上げます。

 

 このイベントは、23年前に地元の酒屋さんと薬屋さんの開店祝いの花火がきっかけとなり、「大晦日の日に108発の煩悩を払う花火を上げよう」と半分しゃれから始まったと聞く。

 

 23年前のその頃は、私は、まだ事務局ではなかった。このイベントが十年続き、十一年めの時、止めようという話があり、田上の名物になっているのだから続けましょうということで、私が事務局に立候補して、あれから早13年がたった。

 

 私自身、数々の煩悩がある。とても多くて、祓っても祓っても祓いきれない気がするが、よくも23回も続いていると感心している。

 

 地元の方々で、冬の花火はイメージに合わないとか、又は音がうるさいなどとクレームも少しあり、過去に迷惑をお掛けした方々もいるらしい。ここでお詫び申し上げたい。本当に申し訳ありませんでした。

 

 我々が、勝手にやっている事なので、本当に申し訳ないと感じているが、主催者の我々も本当に必死でやっている。もしも、迷惑度が大きいのであれば、来年から止めてもよいのだ。と私は考える。

 

 一年の締めくくりと言う事で、大晦日から元旦にかけてのこの数時間は、毎年、神妙な気分になる。新年を迎えるにあたり、いつもとは違う、何か精神的に心が清められる気がする。

 

 心を入れ替えて、毎年、これから一年も頑張るぞという気になってくる。今、午後9時を少し回ったが、これから、明日の朝までの時間が、一年で一番好きな時間である。

 

 どうぞ、地球在住の皆さんにとって、来年一年が良い年でありますように!

2012-08-22 17:57:00

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人生は一瞬で一度きり

20091228

 

 先程、弦巻孝一郎さんのお通夜に行ってきた。私にとって、弦巻さんは、ある意味特別な人であった。

 

 しばらく、お会いしていなかったのだが、6年前に大腸がんになり、闘病生活を送っていたことは、知らなかった。お寺の住職さんが、数え年で60歳と言っていたから、恐らく満で59歳なのだろう。

 

 弦巻さんは、物の見方を教えてくれた。ワビサビの世界とでもいうか、とにかく、数字では計れない、感覚でモノをみることの重要さを教えてくれた。

 

 

 十数年前に一番上の子供が、まだ、小さい頃、一緒に石臼で餅つきをさせて頂いたのを今でも良く覚えている。

 

 今は、町内で餅つき大会をするが、木の臼であって、石の臼は、弦巻さんのお宅だけでしか経験がない。

 

 もっと長生きをして頂き、もっと色々な事を教えて頂きたかったのだが、非常に残念である。

 

 棺桶の中のお顔を見て、本当に残念でならない気がした。人生は、あっという間に終わる。いつ終わるかは、誰にも判らない。だからこそ、毎日一生懸命に生きるのだ。

 

 明日、死んでも良い人生。悔いのない人生を生きたい。

 

 昔、カミさんに明日死んでも良い人生。と言ったら、彼女は、勘違いしていまった。残った私達は、一体どうなるの?無責任もいいところだわ。と。

 

 未だに勘違いしているようだ。釈明する機会を待っているが、タイミングがつかめないまま、十数年も経った。

 

 弦巻さんの創作活動で、モノをつくる何か喜びというか、とにかく感じるものがあった。記憶をたどりながら、教えていただいた事をこれから私は、実行していこう。

 

 弦巻さんの冥福を祈って。合掌。

2012-08-22 17:56:00

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ジョン・レノンの亡くなった日

20091208

 今日は、ジョン・レノンの亡くなった日。忘れもしない、1980年当時、私は、浪人生で、その訃報をテレビのニュースで知った。

 偶然であるが、1962年は、ビートルズのデビュー年であり、私の誕生年である。私は、中学生の頃にビートルズの存在を知った。私は、いわゆる、ビートルズ世代ではないが、思春期にビートルズに出会い、その音楽を聴き、かなり影響を受けた一人である。

 ジョンとポールで比べると、私は、ポール・マッカートニーの方が好きだった。ビートルズ解散後、ポールのソロアルバムをかなり聴き込んだのを覚えている。

 ジョンが亡くなって29年。早いものである。あの頃の自分を今、思い出している。

 12月8日は、真珠湾攻撃で太平洋戦争開戦の日ともされる。この日は、私の知人の誕生日でもある。この場を借りて、おめでとうと言いたい。一体、何歳になったのか。しばらく、お会いしていない。

 太平洋戦争開戦の年から早68年。あと2年で70年である。

 太平洋戦争を境に桐箪笥の造りも変化が起きてくる。戦前と戦後では、箪笥の造りと材料が違うのである。ほとんどの箪笥が、戦前のものの方が出来が良い。戦後の方が出来が悪い。

 恐らく、戦争に突入して、物資が不足し、材料が足りなくなったのだろう。戦後も同じく、敗戦したので、物資が不足し、材料は良くなかったのだと思う。

 偉大なジョン・レノンは、数多くの音楽とメッセージを、作品にして残した。私も家具の世界で、とりわけ名作と言われるような作品を残したいと考えている。家具を造ることにより、使う人を幸せにできれば良いなあと常々考えている。

2012-08-22 17:56:00

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希望 新たな出会い

20091207

 先週、東京国際家具見本市IFFTが開催され、無事終了した。開催前は、昨年に比べて集客の条件は、悪いと感じていたが、実際は、昨年以上の集客を感じた。

 主催者の結果速報だと、今年は20,226名の業者の来場があったとのことである。昨年は、26,912名の来場者数であるが、別のイベントを別館でやっていたり、昨年は4日間で一般ユーザーも来場したことを考えてみれば、今年は、3日間で業者のみであることを考えると、多かった感じは、裏付けられる。

 新たな出会いがあり、弊社にとっては、それはまさに希望に成りうるものであった。個別のお客様名は、出せないが、有名家具店やデパートからの引き合いがあり、それは今後の展開に非常に重要であると考えている。

 桐たんすからモダン桐家具へ。このテーマは、私が、十数年前から考えていたことだった。本当に少しずつではあるが、確実にステップアップしている感じがある。

 海外への販売も含めて、本当に地道に積み重ねていく作業といえる。

 誰が、海外へ桐箪笥と桐家具を売れると考えていたであろうか。十数年前は、恐らく、誰も考えていなかったと思う。

 しかし、現実にそれが実現し始めると、我々の産地加茂の桐箪笥は、救われると考える。もちろん、軌道に乗るまでには、まだまだ、時間がかかるであろうが、業界ぐるみでやり始めて、5年間が経ち、その成果も少しずつ出てきた。

 桐たんすと桐家具は、これからのエコ商品と言える。もっと色々なデザイナーと関連業者が参入して、世界に通じる商品が多く出てくることを期待している。また、私もそのような商品を開発したいと考えている。

 世界市場において、年間で10億円の売上高を桐の椅子で上げる事ができると考えている。桐素材は、十分に期待できる。あとは、デザインである。本物志向の軽くて丈夫な桐椅子は、世界市場に売って出る事ができると考えられる。

 なぜ、桐の椅子が世界中で売れるのか?その理由は、後日、まとめて書き記そうと思う。

 

2012-08-22 17:55:00

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翼をください

20091125

 先日、中学校のPTA合唱で赤いの鳥の「翼をください」を歌った。その感想文を先生から依頼され、先ほど、書き終えたところである。

 ネットで調べてみると、ウィキペディアに詳しく載っていた。フォークグループの赤い鳥が、1971年2月5日に「竹田の子守唄」のB面で発表したとある。

 38年以上経ってもなお歌い次がれる曲というのは、実にすばらしい。私自身、中学時代、授業でこの曲を歌い、好きでレコードを買った記憶がある。

 最近まで実に多くのミュージシャンがカバーしている。良いものは、残り、受け継がれていくという典型的な見本だと思う。

 私も死ぬまでに「翼をください」のようなヒット作品を、家具の世界で創りたいと思う。

 望むなら世界中でヒットする桐家具を造りたい。

2012-08-22 17:53:00

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着物を仕舞う箱から大事なものを収納する箱へ

20091108

 桐タンスは、従来は着物を仕舞う箱であった。今でもそれは変わらない部分があるが、桐素材の特性から着物以外の貴重品や大事なモノを入れる箱に変化しつつある。

 箪笥屋が生き残る術は、「桐タンス=着物を入れる箱」という方程式にこだわらない事だと思う。もちろん、着物を入れる箱という考え方は捨ててはいけない。それは、とても大事な事である。

 しかし、桐タンスの機能性から考えると、湿気や外敵から守る必要性があるのは、着物以外にもたくさんあるという事だ。平安時代から正倉院の宝物殿に桐箱があるように、貴重品を仕舞う箱として、頭を柔軟に考える必要がある。

 弊社も毎年、宮内庁に桐の本箱を納品している。職人に言わせると、箪笥よりも手間がかかるそうだ。

 桐タンスの素材と機能で、単純に「大事なものを収納する箱」に特化すると実に色々な商品が考えられる。桐箱屋では、とても作ることができないもの。上質な桐素材と卓越した職人の技で様々な収納家具が製作できる。

 先日、ある会社の社長宅にある、ネクタイ箪笥を見る機会があった。ネクタイを専門に収納する箪笥である。ずいぶん昔の製作であったそうだが、デザインは、むしろモダンであり、素敵であった。

 長野県から新潟へ来た、大学の教授から聞いた話である。新潟では、湿気が多くて、コレクションのカメラが湿気で故障したと聞いた。せっかく加茂という産地があるのだから、カメラ箪笥を注文すれば良かったと聞いた。なるほどと思った。

 大事な書類を入れるのに箪笥を製作してほしいと言われた事があり、書類箪笥を製作したことがある。浅い引出しで、10段程の引出しがついた箪笥だった。

 総桐の金庫を製作したこともあった。からくりの特殊鍵が付いており、火事に強いという理由から金庫を作ったのだが、元々、桐素材は、熱伝導性が非常に低いので、大型高級金庫の内側には金庫が使われる事が多い、というのが製作のきっかけである。

 考えると無限にある。収納性で考えると、加茂の桐箪笥の素材と技術は、世界一品であると言える。

 イタリアのシルクの産地、コモ市は、新潟県の十日町市と姉妹都市だそうだが、どちらも絹製品の産地である。私も以前、コモへ行き、コモ湖の湖岸にあるホテルに泊まったことがあるが、シルク製品は、湿気を嫌うので、保存に困っている話を聞いた事がある。

 コモ湖の対岸には、先日亡くなった有名なマイケル・ジャクソン氏やアメリカのトップスター歌手である、マドンナの別荘もあり、高級別荘が多くあると聞いた。

 世界中に桐タンスを販売するのであれば、着物を仕舞う箱だけではなく、貴重品を仕舞う箱として捉えて、商品化し、販売していく必要がある。これからは、本家の日本も同じ考え方で新商品開発していく必要があると思う。

2012-08-22 17:50:00

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パリで展示会

20091104

 弊社は、2003年からかれこれ、毎年、海外で展示会に桐たんす、桐家具を出品している。 私は、2001年から市場調査のため海外家具見本市に行き、ほぼ毎年、展示会のために海外へ出張をしている。

 

 

 最初のきっかけは、あるデザイナーと、ある建築家との出会いがあった。当時は、大阪とミラノに事務所を持っていたデザイナーと契約取引を始めた頃だった。また、同じ年に地元加茂出身の建築家が、ミラノで桐をテーマにした、個展を開いたことがきっかけだった。

 

 

 2001年から2年間、ミラノサローネで世界の家具全般を見てから、桐タンスは、非常に珍しい家具という事が理解できた。こんなに柔らかい、軽い素材を家具に使用するという発想が、欧米人には無いようだった。しかし、ミラノ中央駅の広場には、桐の街路樹があった。桐の木を見ているのに桐素材の存在を知る人は、実に少なかった。

 

 

 桐の木を英語とイタリア語で「パウロニア」というが、辞典に言葉は存在してもその言葉を知る人は、ほとんどいなかった。

 

 

 2003年に初めて展示会用に海外に桐タンスを送る場合は、実に気を使った。展示会では、その素材感が珍しいのか、この素材は何か?という質問が実に多かった。ヨーロッパのバイヤーのほとんどが桐タンスを珍しがって、触った。

 

 現在私は、桐たんす、桐家具が海外で売れる事に確信を持っているが、当時は、売れるかどうかもわからず、不安で、自社の展示会に貼りついたり、他国の展示商品を見て回るなど、暇が無いほどただただ動いた。

 

 桐たんす、桐家具は、恐らく近い将来に海外で日本の産地が潤う程の市場が出来るはずである。これは、どこのメーカーが先に実現できるかは問題ではない。どの国にどの程度の品質の桐タンスを供給できるかが、問題である。1社、または産地組合が成功すれば、他のメーカーは、追随すれば良いのである。

 

 機能性、品質、素材を考えると世界市場は、桐たんす、桐家具を待っていると言っても過言ではない。後は、タイミングである。

 

 来年の1月にパリのメゾン・エ・オブジェに加茂箪笥協同組合の一員として、事業に参加し、弊社の桐家具を出品する。今回は、過去にない切り口の商品を提案展示する。来年の今頃は、その受注で忙しくしている事を願っている。

2012-08-22 17:47:00

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映画のお話

20091028

 昔、映画を製作する仕事に就きたいと思っていた。中学生の頃、当時は、まだビデオテープレコーダーの家庭版が普及する前だったので、映画を観るには、映画館か深夜のテレビ映画しかなかった。

 

 お小遣いしか収入が無い時代だったので、主に深夜映画を観ていた。当時は、映画に飢えていた。「黄金の七人」という映画は、おもしろかった。泥棒が7人集まって、銀行などを襲う映画であったが、わかりやすく、ストーリー展開が技巧的でおもしろかった。

 

 中学生の受験勉強をしなければならない頃、映画が好きで、深夜こっそり映画を観ていた。勉強しなければならないという、少し罪悪感もあったが、とても好きだったので、勉強よりは映画を観たい欲望の方が常に勝っていた気がする。

 

 高校に入り、倫理社会の授業で先生が、「映画をもっと、もっと観なさい。いずれは、人生の糧になるはずだから。」と言われて、とても嬉しかった。それまで、少し罪悪感を感じてみていたものだから、よけい嬉しかった。そんな風に映画を賞賛してくれるようなお話は、人生生まれて初めて聞いた。だから、なお一層嬉しかった。

 

 その先生は、後で知るのだか、先生の業界では、かなり有名な先生だったらしい。高校時代、新聞部の部長のお父さんであるのは、知っていたが、教育の世界で有名人であることは、しらなかった。少し嬉しかった。

 

 映画によって、私は実に色々な事を学んだ。今でもそうである。テレビのドラマに比べると、時間もお金も掛けている分、一般的に言って、映画のほうが、完成度が高い気がする。

 

 

 人生は、映画のようなものだ。と良く言われる。本当にそうである。私は、岩手から嫁さんをもらい。5人の父親であるが、18歳の頃、そんなことは、夢にも思わなかった。

 

 

 

 もっとイメージしようと思う。映画を作るように自分の人生と、自分の会社と、世界全体を良い方向に向かう様にイメージしようと思う。良い事を考えると良い事が起こると言われる。悪いと感じる事も、少し引いて良く考えると良くなると言う。

 

 もっともっと脳に働きかけ、または、心にイメージして、自分と家族、会社の社員、友達、社会に良いイメージを膨らませよう。段々と良くなるはずだ。あきらめず、続けるのみである。

 

 

 今、地球外生命体が地球に来ている事は、周知の事実であるが、意外と知られていない。段々と知る機会が多くなってきているのは、事実である。18歳の頃、興味があり、そういう宇宙に関する本や地球外生命体の本を探したが、皆無であった。

 

 今は違う。どこでもいくらでも手に入る。段々と情報開示して、いつかは、日本開国と同じような事が地球全体で起こるようだ。2012年が一つの区切りのようだ。マヤ暦が終わり、地球は新たな時代に入るようだ。

 

 これは、映画を観て得た知識ではなく、本で得た情報である。映画が現実の世界を先取りしているに過ぎないということである。いづれは、物質転換装置や空間転移装置も発明されることだろう。SF映画が、好きだからこのようなお話をしている訳ではない。事実だと思うから話すわけである。

 

 

 現実社会は、イメージの世界(精神世界)で左右されているらしい。イメージが強ければ実現するというのは、現在の地球においては、実は当たり前の事のようである。

2012-08-22 17:40:00

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高校生の頃

20091027

 私は、高校生の頃、余り勉強というものしなかった。どちらかと言うと、高校の生徒会活動にのめりこんでいた。

 

 

 私の高校は、昔、バスケットボールの全国大会で何度も優勝した時期があり、バスケットの名門と言われていた。当時、私も最初は、バスケット部に入部した。バスケットの練習はきつかったが、毎日練習した。下手ではあったが好きで好きで、食事よりも好きな時期もあった。

 

しかし、ある日、練習の壁にぶつかり、乗り越えられず、退部した。

 

 

 代わりに新聞部に入部した。そこで生徒会活動を知る事になった。恐らく、現在の私の考え方、思想の大半が高校時代に育成された気がする。

 

 

 進学校での生徒会活動は、当時、理解をする生徒は、ほとんどいなく、生徒会長もなり手がいなかった。生徒会長になって、毎日寝る間もないくらい働いた。

 

 

 高校時代の苦悩が、現在にも成果として役に立っている気がする。あの頃の苦労に比べると現在は、まだ、楽をしている気がする。

 

 

 私は、高校を卒業したら映画を製作する道に進みたかった。だけど、叶わず、結局、大学はデザイン科で基礎デザイン、プロダクトデザイン、家具デザインなどを学ぶ事になる。

 

 

 

 要するに映画もデザインも想像し、創作する作業には変わらないと気がついたのである。それから大学を出てからは、家業である箪笥屋を継ぐことになるのである。

 

 

 偶然、今日、高校時代の同期生が来社した。懐かしいアルバムを広げて、昔の話をした。私は、昔から「若い頃の苦労は、買ってでもせよ。」という諺を信じている。

 

 

 人生100年。現在売れている、モダン桐家具のいくつかも名作として、100年後も売れ続ける事を願っている。

 

 

2012-02-10 20:57:00

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キリーちゃんのお話

20091011

 弊社の商品にキリーちゃんがある。桐でできた玩具なのでキリーちゃんと名づけた。平成10年に試作品を製作し、翌年の平成11年に商品化した。平成11年(1999年)には、Gマークも受賞した。

 

 

 商品開発のきっかけは、桐箪笥製作時に発生する端材をなんとか有効利用したいという私の想いがあった。また、当時デザイン開発してくれた、産みの親である北川八十治氏抜きには語れない。

 

 

 北川氏は、木工作家でありデザイナーでもある。北川氏は、デザイナーの中でも特別で、ご自身で家具や小物を製作できるので、家具の構造を熟知していて、他の桐家具を開発する際にはずいぶんとお世話になった。

 

 家具の中でも桐箪笥は、構造が特別な部分があり、北川氏は、桐タンスにはない、新しい構造を弊社に提案してくれた。

 

 さて、キリーちゃん開発の肝心な部分は、接着剤にある。ご存知の通り、桐箪笥というのは、無垢材でも通常の柾材で、仕上がりが約4mm弱、底板に使う三分板で約7.5mm、引出しのホテ板で21mm程度、引出しの先板で16mm程度、本体の側板で30mm程度なので、積木を製作するには、十分の厚さとは言えない。

 

 そこで薄い材料を合わせる(接着する)発想が出てきた。もともと端材で製作する事は、手間がかかる。 これを始める前に同業者に相談したら、ほとんどの方から無理だと言われた。業界の実情を知っているからコストが合わず、無理というのは、常識的な考え方である。

 

 しかし、異業種の会社の社長に相談したら、ぜひやりなさいという意見が実に多かった。それでキリーちゃんが始まった。

 

 

 もともと桐たんすは、軽くて柔らかい素材なので、昔は続飯(そくい)を接着剤として使用していた。戦前から戦後20年代には、木工ボンドがまだ無く、桐箪笥の接着は、デンプンが凝固する性質を利用した、お米のノリが使用されていた。

 

 その後、30年代に入り、いわゆる洋家具が出てきた頃から木工ボンドが市場に出てきて、箪笥屋も段々と生産効率の良い、木工ボンドを使用するようになった。

 

 だから、桐素材を接着するのに続飯(そくい)を使用するのは、温故知新であり、古人の知恵と言える。

 

 弊社の積木のサイズは、基尺が45mmのモノと35mmのモノの2種類ある。タンスの端材を使用するのに、45mmの無垢材は、ほとんどないので、子供がなめても安全で丈夫な続飯を使用するのは、実は理にかなった話なのである。

 

 ちなみに基尺が30mm、20mmの積木も市場には、出回っているが、キリーちゃん開発の当初からそのスケールでは、小さいという事で45と35の基尺になったわけである。

 

 10年経って、まだ、売れ続けている。桐は、軽くて柔らかいのが、玩具として受けている大きな理由だと思う。

 これは、メーカーとして大事に育てていく商品だと最近強く思う。初心に帰り、キリーちゃんの提案する、親と子の遊ぶ場作りを考え直したい。

 

 節目の時期なので、キリーちゃんを使用した、イベントも考えている。新商品も考えている。タンスメーカーではあるが、桐玩具のメーカーでもある。継続していきたい商品である。

2012-02-01 18:13:00

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